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アンドレ・ブルトンは「ナジャ」の最後をこう締めくくっています。「美は痙攣的なもの、それ以外にないだろう。」と。美しいと綺麗は異なります。極限まで美しいものは、ひなびた雰囲気もなく、ゆるやかな時間を提供するでもなく、心が洗われるでもなく、既存の価値観やそれまでの生活態度や眼差しなどに揺さぶりをかけるものだと(ある側面では)考えています。なのでカスパル・ダーヴィト・フリードリヒの絵画やフリーデンスライヒ・フンデルトヴァッサーの建築やヴィルヘルム・フルトヴェングラーの1951年バイロイトのベートーヴェン交響曲第九番やルイ・フェルディナン・セリーヌの小説や土方巽の舞踏などに圧倒的な美を感じます。「癒し系美人」というのは私にとってはパラドクスなわけです。
先日、とある方に漆器をお送りしました。見てみたいとのことです。漆器が戻ってきたとき、手紙が添えられていました。さらに後日、メールもいただきました。定義づけや位置づけは一切されていません。そして、とても深いシンパシーが存在する、もしくは存在する可能性があると感じました。
許可をいただいて極一部を掲載します。
ありがとうございます。
先日、とある方に漆器をお送りしました。見てみたいとのことです。漆器が戻ってきたとき、手紙が添えられていました。さらに後日、メールもいただきました。定義づけや位置づけは一切されていません。そして、とても深いシンパシーが存在する、もしくは存在する可能性があると感じました。
許可をいただいて極一部を掲載します。
「まいにちの器」などといって一見シンプルなかたちのものがある一方で、見せていただいたうつわのように手ごわいけど付きあい甲斐のあるかたちが存在する。小谷口さんのうつわは塗りはこれ以上ないというくらいにシンプルなのに、なぜこのかたちなのだろうと思ってきました。
どうして「コントロールしない派」を排除するようなかたちなのだろう、というような感想を持っていました。実際に手にとって見て、そのわけがなんとなくですが、わかった気がします。
付きあい甲斐のないシンプルさは、人生をコントロールする人たちには物足らないということなのかもしれない。今のわたしは自分の人生をコントロールするところまで達していないので、たに屋さんのうつわはあこがれに近いです。
でも、見ていたら、このかたちを自分に沿わせてみたいという欲がわたしの中にもあることに気づきました。気づきましたというか、いつもそういうことに蓋をして生きているので、思い出してしまいそうで少し慌てました。
いろいろ書きましたが、一番思ったことは美しいということです。
ありがとうございます。
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